動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集5

  • 2020.09.23 Wednesday
  • 18:26

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動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集5

 

「動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝」 の文献資料集4の続きです。

文献資料集3では、門中以前の共同体ハラ(腹)、ヒキ(引)、クミ(与)について分かち合いました。

 

今回は門中の定義と成立の過程の歴史について分かち合います。

中国の王朝暦や和暦、琉球の王朝を持ち出しても、かえって混乱するので、かなり端折ったまとめになります。

 

詳しく知りたい方は文献から確認してください。

 

門中とは、広義の意味では、「1人の人の子孫として同じく血を分けた者、またはその団体」で、狭義の意味は、「本家の行う先祖祭に参加する一族またはその団体」です。


「門中」という言葉の登場は、割合新しく、古い時代には使っていません。
「門中」以前、それに類する言葉に、家門、親類中(1690年)、一門(1709年)が用いられていました。
1745年に「門中類中」という言葉が見られるようになりました。


現在までの沖縄の祖先崇拝の制度は

 

トートーメーと呼ばれる位牌 + 門中墓 + 門中(父系の血縁集団)

 

の3つの要素を満たしていることです。

 

現在確立されている沖縄の門中制度による祖先崇拝がいつから確立したのでしょう?
それは父系の血縁集団でまとまった門中集団の発生と関係があると考えられています。

そのため、沖縄でかなり古い家系図が手がかりになります(1960年代で17世)。

沖縄で記録のある古い家系は14世紀中頃から始まっていると言われていますが、系図が編集されたのは、1690年で、その一年後には、琉球王府が士族と平民の区別を分け、かつ士族の血筋を明らかにするために、琉球王府は系図座を設けて、士族の家譜を編集しました。
その時すでに、その家系は9世となっていました。

ところが、その由緒ある家系ですら、一世はいつ生まれいつ亡くなったのか記録がありません。
二世は生まれた年の記録はありますが、死亡年の記録がなく、三世はその逆となっていました。
四世から七世まではそのような形式でしか記録が残されていません。
生年・死去年の記録があるのは九世以降からです。

 

琉球の祖先祀りは中国の影響が大きいと言われています。
14世紀後半に中国から琉球に移り住んだ、久米三十六姓(くめさんじゅうろくせい)とよばれる帰化集団の、とある氏族ですら、琉球王府の官職や出生・死亡年月日、さらに葬られた墓地すら不明となっています。
特に祖先祀り欠かせない墓所すら六世まで不伝となっています。

唐栄(とうえい)と呼ばれる、この中国から帰化した人々の別の氏族も同様に、元祖から七世まで出生・死亡年月日、墓地不伝となっています。

 

先祖の葬った墓所が不明ということは、年ごとの先祖祀りも一族の集まりもなく、先祖供養の方法もごく簡単に行われていたと考えられます。

 

このような状態で門中を結成する理由はなさそうです。

 

実は唐栄の家譜で葬地が明確になるのは、同じく位牌が備わる時期で、それは薩摩藩の島津氏による琉球侵略(1609年)以降です。

 

門中制度のような家系ごとの墓を持ち、血統を重視する祖先祀りが行われるのは、位牌と墓所がそろった島津氏の琉球入り以降と考えられます。

 

1610年、薩摩藩は琉球に税を課すために、田畑を測量して、境界を定めて収穫高を明らかにする検地を行いました。

 

さらにそれから1620年までに士族と百姓を分ける士農分離を行い、1613年には刀狩りを実施しました。

 

徳川幕府のキリスト教禁令の施政は琉球にもおよび、1636年にはキリシタンでないことを証明するための、宗門改(しゅうもんあらた)めが始まっています。

 

年貢や労役を逃れるのを防ぐため、1652年には農民の町方移住を禁止しました。

 

1667年には、琉球の摂政(せっしょう)となった向 象賢(しょう じょうけん、羽地 朝秀(はねじ ちょうしゅう)のこと)に施政で「位牌は世継ぎに持たせる」(羽地仕置 はねじしおき)と規定され、男系嫡流による祖先崇拝の確立が進んでいきました。

 

1691年に王府は系図座を設けて家譜を編纂(へんさん)し、士族の身分を系統を管理しました。

 

家譜とは琉球王府が認めた士族の系図のことであり、それを持つことが許された身分は、「系持ち(つまり士族)」とよばれ、持てない身分の者は「無系(百姓)」とよばれました。

 

なお、琉球の平民は本土のように、百姓、町人(ちょうにん)といった呼び方の区別なく、地方で農業に従事するものを、田舎百姓(いなかびゃくしょう)、覇や首里の町に住んで商工業に従事するものを町百姓(まちびゃくしょう)と呼びました。

 

このように、士族と平民の身分分離から始まった系図編纂から始まり、一門の意識への高まりによる門中制度は、次第に平民層にも広まっていって今日に至っています。

 

(続く)

 

文献

 

渡口真清 1971「門中の成立」大藤時彦、小川徹編集 『沖縄文化論叢(第二巻)』 平凡社

渡口真清 「系図と門中」 昭和42年12月 『沖縄文化第六巻第二号』沖縄文化協会

渡口真清 「士農分離」 昭和41年11月 『沖縄文化第五巻第二号』沖縄文化協会

渡口真清 「鎖国と琉球」 昭和44年8月 『沖縄文化第七巻第一号』沖縄文化協会

新城徳祐 編著 1960 『干支入 琉球歴史年表』 三ツ星印刷

安達義弘 2001 『沖縄の祖先崇拝と自己アイデンティティ』九州大学出版会

動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集4

  • 2020.09.04 Friday
  • 22:04

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動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集4

 

「動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝」 の文献資料集3の続きです。

 

門中以前の血縁、共同体集団について

 

沖縄の祖先崇拝を語るのに、「門中(もんちゅう)」という組織に触れずに素通りするわけにはいかないでしょう。

門中とは、 *広義の意味では、「1人の人の子孫として同じく血を分けた者、またはその団体」で、狭義の意味は、「本家の行う先祖祭に参加する一族またはその団体」です。

 

沖縄の血縁集団の墓は、門中墓とよばれて、他県のそれに比べて相当大きな造りとなっています。*

 

*渡口真清 昭和42年「系図と門中」沖縄文化協会 『沖縄文化第六巻第二号』8

 

「門中」という言葉の登場は、割合新しく、古い時代には使っていません。
「門中」以前、それに類する言葉に、家門、親類中(1690年)、一門(1709年)が用いられていました。
沖縄の門中以前の共同体 ハラ(腹)、ヒキ(引)、クミ(与)などがありました。
1745年に「門中類中」という言葉が見られるようになりました。**

 

**渡口真清 同 17


現在までの沖縄の祖先崇拝の制度は

 

トートーメーと呼ばれる位牌 + 門中墓 + 門中(父系の血縁集団)

 

の3つの要素を満たしていることです。


門中については後日分かち合うことにして、ここでは、門中以前の血縁あるいは共同体について情報を分かち合います。

門中は士族から始まったといわれており、それ以前や地方には、ハラ(腹)、ヒキ(引)、クミ(与)などがありました。

腹(ハラ)は沖縄本島南部に多く見られます。


「国頭村安波部落に門中が移入したのは明治以降であることを論じた(*常見、一九六五)。」

 

比嘉政夫 1974「「門中」をめぐる諸問題 ―小川徹氏の論考を中心に」『沖縄文化研究1』法政大学沖縄文化研究所 186


「父系血縁の原理を貫徹させた旧士族層や都市地区周辺の門中にくらべ、農村や周辺離島地域の門中においては、父系原理にこだわらず他系出自の者も養子として組み入れている霊が少なからず見いだされた」

 

比嘉政夫、同

 

*常見純一 1965 「国頭村安波部落における門中制度の変遷」東京都立大学南西諸島研究委員会編『沖縄の社会と宗教』25〜58、平凡社


「ヒキは、血縁にかぎらない系統やそれにもとずく集団を意味している(比嘉政夫、一九六七)」

 

比嘉政夫、同 190


「≪首里那覇の旧士族層の門中はともかく、農村地域の門中的な組織は共同墓を中心とするヒキまはたハラとよばれるものであるが、排他的な父系血縁はおろか、何らの血縁的紐帯もないことがありうる≫」

 

比嘉政夫、同 190


琉球王府には、「三司官(さんしかん)」とも、「世あすたべ」ともよばれる、国の政治をつかさどる最高位の職がありました。
その配下には3つの「庫理(ぐい)」とよばれる行政組織がありました。

 

3つの庫理いにはそれぞれ4つの「ヒキ」が所属し、合計12のヒキが存在しました。
このヒキは、海外貿易の拠点として不可欠な那覇港を守備や、湧水、那覇市中の守備を担当していました。
さらに首里城の警備・防衛も担当しており、軍事的編成の性格を帯びていました。
そのほか、貿易船の勤務もしていました。

 

高良倉吉 1991「王府組織の展望」琉球新報社 『新 琉球史 古琉球編』 172-180


「与(くみ)とは、農村で年貢などの租税を納めるために連帯責任を負わされた共同組織のことです。」

 

『アーカイブス 動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集2』


「但し、與(くみ)の名義は大小いろいろに使用され、*向象賢(しょう じょうけん)が*首里三平等(しゅりみひら)の行政区割を設定したときに、各平等の長官を與頭(くみがしら)と唱え、又*切支丹改(きりしたんあらため)等の時には、與中と云う語が名主貫内を相称する場合に使用されている」

 

東恩納寛惇 昭和25年(昭和39年再印刷)『南東風土記』沖縄郷土文化研究会 41

 

旧漢字と仮名使いを現代仮名使いへ変更し、引用しています。


*向象賢(しょう じょうけん):琉球の政治家で琉球王国の摂政(せっしょう)となった羽地朝秀(はねじちょうしゅう)のこと。

 

「羽地仕置」として知られる琉球の政治改革を行った。

 

*首里三平等(しゅりみひら):琉球王国時代の首里の3つの行政区画。
真和志の平等・南風の平等・西の平の3つ。

 

*切支丹改(きりしたんあらため):江戸時代に行われたキリシタンの摘発や、キリシタンでないことを証明する宗教政策。


私たち沖縄出身者は血縁親者の集団を表す門中ということばを日常的に使用していますが、位牌と同じように士族層から始まり、地方の平民に広まっていったことは知られていません。

 

また、門中以前の組織共同体の呼び名についても大半の人は関心が薄く、それすら知らないのが現状でしょう。

 

(続く)


 

動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集3

  • 2020.07.31 Friday
  • 21:38

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動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集3

 

「動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝」 の文献資料集2の続きです。


ナレーション:だからといって、おいそれと従ったわけではなく、死を忌み嫌い、死者の霊を表す位牌を家の中に置くことにはかなりの抵抗があったにちがいありません。

 

「位牌祭祀が十七、八世紀に頃に定着したといっても、これはあくまでも系図持、つまり上流社会において定着したことを意味するので、常民社会においてはそうはいかない。
位牌を祀るということは心理的もかなり強い抵抗があったようだ。
その理由はいくつも考えることができる。
例えば家屋の広さは制限されていて、祭壇を作るだけの余裕などはとてもなかった。
それよりも死者に対する畏怖感が濃厚で、屋外に墓を作るということすら恐れたところもあるくらいで、ましてや屋内に死者の霊を祀るということは想像もできないことである。」

 

酒井卯作 昭和62年『琉球列島における死霊祭祀の構造』第一書房 518-519


ナレーション:今から二百年くらい前、役人が村の家々をまわってちゃんと位牌を置いてあるか検査をしたとき、位牌を置いていない家では、検査の済んだ家の位牌を裏からリレーして二、三軒の家の検査を済ませて役人の目をごまかしたとも言い伝えられています。

 

祀った位牌を拝む祖先崇拝の祭祀が確立している現代では、この話は信じられないかもしれませんが、この個所は、動画の話の最大のトピックでしょう。

 

これは沖縄バプテスト連盟の初代理事長だった故照屋寛範牧師の著書に依ります。

 

「位牌あらためのこと しかし、位牌が地方の庶民(しよみん)に祭られるようになったのは、これよりすっと後のことで旧藩時代末期のようである。
今から約百、五六十年前に位牌検めなるものが、時の田地奉行(でんちぶぎょう)玉代勢(玉代勢:たまよせ 筆者読み方挿入)*里之主(里之主:さとぬし 筆者読み方挿入)によって行われた。
「位牌あらため」とは位牌を祭ってあるかどうかを検査(けんさ)することであったが、この時、まだつくっていない家では、垣根(カチヌミー)ごしに「チンブキ、チンブキ」手渡しをして、一つの位牌で二三軒の検査をすませたとのことである。
この話は佐久原牧師にうかがったのであるが、同夫人が、右田地奉行玉代勢里之主の孫女に当られる方であるから間違いのない話であろう。
なんぼお上からの検査の為とはいえ、また、これが一時的とはいえ、他人の位牌をかりて来てかざるということは、今日の人々の位牌観念(いはいかんねん)からすればとうてい出来そうにないことである。
これから考えても、位牌及びこれを中心とする沖縄人の祖先崇拝は、その当初にあってはお上からしいられたものであったことがわかる。」

 

照屋寛範 『沖縄の宗教・土俗』1957年 7


ナレーション:このように位牌の歴史はそう古くなく、庶民、特に農村に位牌が広まったのはかなり後で、明治の初めから大正ぐらいにやっと定着したようです。

 

「奄美大島瀬戸内町久根町でも、明治の頃までは百姓の家は**三丈二間ぐらいのもので、とても仏壇などおく場所はなかった。札(ふだ)(位牌)は小さい箱にいれて納っておき、盆などにはその棚から札をとり出して祀ったという(久家実知氏談)。
その位牌も本願寺の伝道者が古仁屋に本拠を構えて布教しだした頃から始まったもので、それは、大正の初期頃らしい。
それまで慣行としてあった葬儀のときに**トベラの枝で叩いていく風習や、弔いの夜に行ったヤーダレ(家祓い)は野蛮だという理由で、布教師から中止させられたそうである。
つまり常民社会においては、精神的な意味でも、物理的な意味でも、屋内に聖断を常設して祀るということは、その家屋構造からみても困難であった。
王府から厳しい通達をうけながら、大正時代になってもまだ位牌を祀らなかった久高島をはじめ、昭和になってもその必要を認めなかった琉球各地の風習は、現代の祖先崇拝の感情だけではとても理解できないものである。」

 

酒井卯作 同 535-536

 

また、琉球大学の民俗研究クラブによる読谷村座喜味集落調査報告書にはこのように書かれています。

 

「又、仏壇に位牌のない家が多い。戦争で失くしたが、まだ新しいのを作っていないのだと言っている。」

 

琉球大学民俗研究クラブ 1966年 『沖縄民俗第12号 狩俣・熱田部落調査発表』78

 

*里之主:琉球王国時代の士族の位階。

**三丈二間:一丈(じょう)は約3メートル、一間(けん)は約1.8メートル。
三丈二間は約12.6メートルになる。

***トベラ:海岸の岩地に崖地に自生し、四月から六月にかけて、白または淡い黄色の小さな花を咲かせます。
実は秋頃熟し、割れて、種は赤いネバネバした液に包まれています。
植物全体に悪臭があり、トビラに刺して魔除けにしたことから、その名がつけられたようです。

 

 

(続く)

動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集2

  • 2020.07.27 Monday
  • 22:58

動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集2

 

「動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝」 の文献資料集1の続きです。
今の祖先崇拝の形態の普及は歴史的に浅いことを証明する、重要な部分です。


ナレーション:庶民への普及 位牌の祀りは最初、王様の一族で行われており、それに倣って士族に広まったのは、今から四百年前です。

 

「首里・那覇の王府官人層の場合、十六世紀初めまでに位牌祭祀を受容していたのであるが、」

 

沖縄国際大学南東文化研究所 1994 『ト−ト−メ−と祖先崇拝 ―東アジアにおける位牌祭祀の比較―』 沖縄タイムス社 22


ナレーション:庶民へは各家に位牌を置くようにと王様の命令で広まりました。

 

「農村では位牌をまつる習慣は十七世紀後半から十九世紀にかけて徐々にひろまったらしい。
農村でいち早く位牌の祀りをおこなったのは王府官人(士族)と接することの多い地頭代(地頭代:ジトゥデー、筆者による読み方の挿入)以下の地方役人であった。
一七六九年に伊計村の名嘉村親雲上(親雲上:ペーチン、筆者読み方挿入)が位牌のない村人のために「掛物神主」七十一軸を作って分け与えたことが『球陽』巻十六・尚穆王(尚穆:しょうぼく、筆者読み方挿入)(在位一七五二‐九四)三十年の条に記されている。
掛物神主とは個人の名を書いた紙をはった掛け軸であろう。
略式とはいえ、神の位牌を沖縄でも用いることがあったわけである。
十八世紀にはいって王府が、百姓に位牌を安置して祖先をまつるよう、くりかえし指導したことは、「北谷間切締向之条々」や、久米島・宮古・石垣の在地士族の行政方針にてらして明らかである。」

 

沖縄国際大学南東文化研究所 同 22

 

その「北谷間切締向之条々」の内容を見てみましょう。
原文は文語調に書かれているので、現代語に私訳してみました。

 

「一 村々の家に位牌を安置してない者ものが増えていることは、供養が疎〈おろそ〉かになっているものとみられるので、位牌による供養は死者の霊魂を引き寄せて祖先の霊に対する孝行を尽くし、その時の法要儀礼のために〈位牌を〉安置して真心をもって時節ごとの法要儀礼を適切に行わないと適〈かな〉わないことである。
右のような今の様子では、死者の霊魂が安らかに眠ることができないのはもちろん、追悼〈ついとう〉としての孝行の道が適〈かな〉わないことは明らかである。
人の道を忘れた先にあげた右のように位牌のない者は早急に(位牌)を仕立てて法要を手厚く執り行うよう申しつけること。」

 

小野武夫 編集、吉川圭三 発行 昭和7年7月30日第一刷、昭和62年10月1日第4刷発行 『近世地方經濟史料 第十巻』 吉川弘文館 315,349

 

これは、同治(どうち)八年己巳(つちのとみの日)霜月(しもつき)となっています。

同治という聞きなれない元号が出てきましたが、和暦をいくらさがしても出てきません。
琉球は中国の皇帝に柵方(さくほう、さっぽう)、いわゆる君臣の関係を結んでいたので、中国の皇帝の治世の元号を使用していました。

 

当時の中国は清朝で、時の皇帝であった同治帝は清朝の第10代皇帝でした。
同治八年は、同治帝の在位8年で、西暦では1896年、和暦では明治二年です。
霜月は十一月で、己巳の日はついたちです。
つまり、1896(明治2)年11月1日です。

 

つまり、琉球の農村では明治に入っても、位牌が普及しておらず、琉球王府がさかんに指導してました。

 

北谷間切より少し古いのですが、久米島の具志川間切でも位牌の設置に関する指導が行われていました。

 

「 〔史料]久米具志川間切規模帳

二 諸事締方の事

一、位牌を安置していない者いて、はなはだしくよろしくないことである。
急いで仕立てるよう、申しわたすべきこと。

一、跡方(あとかた)相絶(あいたえ)て、位牌だけ置いてある家屋敷が村ごとに多くあるのは、見かけ上よろしくないので、与(くみ)、親類または周囲が見苦しくないように取り計らうべきであると、申し渡すべきこと。

道光(どうこう)十一年辛卯(かのとう)十一月十二日」

 

具志川村史編集委員会 編 昭和51年 『久米島具志川村史』321、333 具志川村役場

 

道光帝は清朝の第8代皇帝です。道光十一年は西暦1831年、和暦で天保(てんぽう)二年です。
干支(えと)で辛卯(かのとう)の年ということです。

与(くみ)とは、農村で年貢などの租税を納めるために連帯責任を負わされた共同組織のことです。

 

このように、琉球王府は地方役人を通じて農村の各家にも位牌を安置するよう、明治に入っても指導を行っていたことが分かります。

 

(続く)

動画 沖縄の伝説・行事に見る造り主のお姿 7月24日金曜日21時公開

  • 2020.07.21 Tuesday
  • 07:40

動画 沖縄の伝説・行事に見る造り主のお姿 7月24日金曜日21時公開


小冊子2「うちなぁの伝説・行事にみる造り主のお姿の動画アップ準備中」の動画をYoutube(ユーチューブ)で7月24日金曜日21時に一般公開します。


URLは https://www.youtube.com/watch?v=ITbKTCYoaBM&feature=youtu.be です。

 

前回よりも画像の数も多く、けっこう時間がかかってしまいました。
今回は貴重な未公開映像も含まれており、初めて公開する画像もあります。
私個人のファイルの中に埋もれていましたが、主のお役に立つことできました。
多くの方に拡散、シェアお願いします。

小冊子うちなぁの伝説・行事にみる造り主のお姿の動画アップ準備中

  • 2020.07.18 Saturday
  • 09:17

小冊子うちなぁの伝説・行事にみる造り主のお姿の動画アップ準備中

 

小冊子1「本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝」の動画から一か月以上経ちました。
継続してアップしていくつもが、隙間時間をぬっての制作なので、なかなかはかどりません。
只今、小冊子2「うちなぁの伝説・行事にみる造り主のお姿」の動画を調整です。

 

 

画像が多くて前回よりも工程も増えましたが、もうすぐ公開します。

 

時は短いので、総力戦のつもりで、私がオリジナルで持っている画像などを多用しました。

 

前回は伏線的な話の展開でしたが、今回は原罪から贖罪にいたるまで福音が語られています。
公開前になったらお知らせします。

動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集1

  • 2020.06.26 Friday
  • 16:33

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動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集1

 

小冊子1として2004年に発行した「本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝」は誰にでも分かりやすく話を展開することに主眼を置きました。
そのため、時の琉球王国の政権だった琉球王府を王様と表現したり、参考にした資料や文献の表記を省きました。
しかし、大変まれにその根拠となる資料を求められることがありました。
今回動画を公開したことによって、求められることが多く出るだろうと予想されます。
そこで資料の引用文を表記することにしました。
動画や小冊子を用いて伝道したときに、出典を求められた際に活用されたら幸いです。

 

ナレーション「琉球の歴史に初めて位牌の記録が出るのは、今からおよそ600年くらい前...お寺に、しかも王様の一族だけが拝んでいました」

 

「沖縄の位牌のまつりが最初に史料に登場するのは朝鮮の『李朝実録』である。
そのなかの「世祖恵荘大王実録」八年(1462)の紀事に、済州島人梁成らが琉球に漂着して見分したことが記録されている。
それによると、梁成たちは1456年に久米島に漂着し、那覇に送られたが、7月15日にお寺では、死者の名を書いたものをテーブル上において僧侶が読経していた、と報告している。
1456年には、琉球王国の臨済寺院で位牌祭祀がおこなわれていたのである。」

 

沖縄国際大学南東文化研究所 1994 『ト−ト−メ−と祖先崇拝 ―東アジアにおける位牌祭祀の比較―』 沖縄タイムス社 19-20


ナレーション:位牌の由来
位牌は、トートーメーとも言われています。トートーメーとは「貴(とうと)い御前(おんまえ)」という意味で、...

 

「トートーメーとは「貴い御前(とうといおんまえ)」の意。近代までは信仰対象としての「月」もトートーメーといっていたが、現代ではもっぱら位牌に祀られる祖先をさす。
トートゥガナシ(貴いお方の意)ともいう、カナシ(加那志)は尊称。」

 

沖縄国際大学南東文化研究所、同 34


ナレーション:中国の礼儀と孝行と大切にする儒教...

 

「そして白木の粗末なものでなくて、赤や黒の漆を塗った立派なものを作るようになったというわけですね。
今の位牌の起源です。
そのような位牌はいつごろ、どこで作られたかが問題です。
おそらく中国で、儒教の信仰の高まりとともに作られたと思われます。
何しろ儒教は「孝」を道徳の基本に置き、これを実践することを教えの中心にしています。
中国の孝というのは、生きている親やもちろん、死んだ祖先に対してもよく仕えることなのです。」

 

沖縄国際大学南東文化研究所、同 152


ナレーション:位牌以前の葬法 ほとんど風葬が行われました。

 

*「現在の琉球の葬制を支えているものは洗骨習俗にみられる典型的な複葬制である。
洗骨というのは、死亡するとまず埋葬される。内地の多くの葬法はこれですべてが完了するので、いわゆる単葬制ということになる。
ところが琉球では数年後、死者が骨化する頃を見計って掘り起こし、骨をきれいに洗って最終的に納骨してすべての行事が完了する。
つまり二度の死者の処置を施すわけで、複葬もしくは二次葬などとよばれるゆえんである。」

酒井卯作 昭和62年『琉球列島における死霊祭祀の構造』第一書房 50

*著者が調査した当時の葬制であって、もちろん、現在の沖縄の葬制は火葬で一度の葬儀を済ます単葬制です。

「こうして考古学の成果を洗骨習俗として結びつけて考えてみると、現在の濃厚な祖先崇拝と結びつくような洗骨の風習は少なくとも十三世紀頃までは存在しなかったと考えられる。」

 

酒井 同 83


ナレーション:その他亡骸(なきがら)を野山や海岸の洞穴にそのまま放置した葬法もあったようです。

 

「地上におかれた死者をめぐって、最初に物議をかもしたのは、たぶん河村只雄氏の報告であろう。
氏は昭和11年から始めた琉球列島の調査を『南方文化の探求』と題してまとめているが、その中の一節に「風葬される地帯の山に行くと到るところ骸骨がゴロゴロして居る。
筆者は或岩かげに臭気こそなかったが、まだ骨面が艶々して居て、死後尚あまり年月を経過したものとは思はれない風葬体を見た」とあり、さらに「天然の洞窟や墓場の森の中に、なきがらを只置いて帰るのである。
置いて帰ったら、再びお墓詣りをするのでもなく、何周年といふ様な法事をするでもない。
仏壇とか位牌とかいったものは勿論ない。
都会人の頭で抽象的に考へ、外面的にのみ見るなら、正に、死体遺棄とでも言ひたいところである(九〇頁)と述べてある。氏は洗骨や改葬などは所詮、首里文化の影響にすぎないと考える。」


酒井 同 45


「また常見純一氏によれば、同じ国頭の安波では、目撃者のいる最古の葬法は海に近い村外れのアダンの繁みの中に納棺せずに遺骸を置いたままで、その後は何もしなかった。
犬がその骨をくわえてくることもあったという(『沖縄の社会と宗教』五二頁))。
また平良豊勝氏の手による『喜如嘉の民俗』(九二頁)によれば、この村の北方にあるメンバ崎とドーコの岩場にはそれぞれ骨場(くちば)というところがあり、そこには多数の人骨が散乱していたという。
一説には根謝銘城の周囲には昔の戦死者らしい人骨が多くあったから、これもその当時の戦死者の骨であろうと推測される。
この喜如嘉のマチジ山やタモージ山などの竹山では死者が骨化すると、その下から竹が髑髏の目や鼻などの穴のあいているところを突きぬけて生えてくるそうである。」

 

酒井 同 11


ナレーション:葬地はとても恐ろしい場所としてできるだけ近づかないようにした地域もあったようです。

 

「石垣きみ子女史によると具志川市太田には多くの洞窟(がま)があるが、とりわけアタナシガマには石棺が並び、人骨があり、ここにはめったに近づくものでないという(『沖縄民俗研究』三)。
また与那城村宮城でも墓は恐ろしいところだという(『沖民』二〇)。
したがって久米島儀間などではモー(原)の先に家を作ると栄えぬといって忌むというのも(『沖民』二〇)墓地への恐怖からとみられる。
モーは墓の別名である。
このように、沖縄本島でも古い葬地に立入ることは強い禁忌観念がみられるが、宮古島に下るとこの傾向はいちだんと厳しいものになる。
宮古島では葬地は人に教えるものでない(宮国定徳氏)といわれるほど敬遠される。
具体的な例として平良市などの一部では正月十六日の清明祭をヨーツといい、墓参りをするが、このときは墓まで行かないで途中まで行って木の枝を折って祀って帰るという(『平良市史編集だより』八)。
また鎌田久子女史の採集によれば、宮古本島の北方にある大神島では墓は恐ろしいところで近寄らず、清明祭などにも墓に行かないで、部落近くの三辻になった畑の中などで墓祭りをするというし、水納島では死後二十一日間は墓に水をもっていくが、それ以後はけっして行かない。
墓はこの島のいちばん恐ろしいところで、日頃は人はここには寄りつかないという(『女性と経験』一五)。
その大神島に対する宮古本島北端の狩俣でも墓地は極端に恐れて、日暮になる近づかない。
ここでは清明祭はなく、その代わり年に一度の七夕の日に墓掃除を行なう例があるが、この日にも墓までは行かない家がある。
だから荒れ放題で、草木に覆われたままの墓地も珍しくなかったという(『沖民』一二)。
狩俣の北端のセド崎は現在は道路が完備しているが、昭和四十五年頃までは人骨が散乱していて丙午の日などは火の玉が出るとか、三味線にあわせて歌も聞えるといい、この日に行くと熱病を出して死ぬという話もある。
したがって平素でも村人はそこに行くのを好まなかったそうである。
こうした葬地に対する態度と、伊良部島や大神島では依然は棺を葬地におくと懸命に逃げ帰った(大森義憲氏)ということとを考え合わせると、死者に関する考え方がどのようなものであったかが想像できよう。
葬地は隔絶された世界であり、生者と融合できる何ものも存在しない。
鎌田久子女史は同じ報告の中で、砂川では葬地の手入れをすると、その人は死ぬとさえ伝えている。
八重山地方でも葬地に対する考え方は変わらない。
崎原恒新氏によれば、黒島では墓をおそれて、特別な行事でもなければそこには行かなかった。
だから石垣市の*四箇では、沖縄の風習をまねて、墓に行って三味線などをひいて遊ぶ光景を珍しがるそうである。
その石垣市でも、野山で人骨を見た場合、けっしてかわいそうだ、などいってはならない。
そういうと死霊がその人にすがって成仏しない。
だから「汚ない」といって唾をはきかけるそうである(『南研』八)。」

 

*四箇:石垣市の四ヵ箇字のこと。字登野城、字大川、字石垣、字新川。

 

酒井 同 338-339

 

「狩俣の人たちは墓が古いせいか、極力墓を恐れて、日暮は墓地に近づこうとしない。
清明祭がないので年に一度の墓掃除の日である七夕のときでも行かない家がある。
従って墓地は草木に覆われ、うっそうとして、近年、人が近づいた形跡すらうかがえない。」

 

琉球大学民俗研究クラブ 1966年 『沖縄民俗第12号 狩俣・熱田部落調査発表』48

 

「このセド崎は狩俣部落の北方、宮古本島の最北端ではたくさんの骨が散在し、村人達は平家の落ち武者の骨だろうとか、いや、マーレン(帆船)が嵐に会い、その漂流人の遺骸だとか話をする。
現在でも丙午、甲午の日には誰もいないのにランプの大きさくらいの火の明りが二つついているように、マーザピース(火の玉)が出この日にはつづみや三味線に合わして歌が聞こえて来るとのことでその日でなくても村人達はそこに行くのを好まない。
この日に行くと熱病を起してたおれるといわれている。」

 

琉球大学民俗研究クラブ 同 61

 

「七 夕 酒、線香、お茶を持って墓掃除に行く。
掃除が終わるとお茶、酒を供え、線香を焚き、盆にいらっしゃる様に祈る。
又墓に直接行かない家では畑や小高い所で墓の方に向いおがむだけである。
狩俣では一般に墓はきたない所とか恐い所であると考えられている。」

 

琉球大学民俗研究クラブ 同 82


ナレーション「ある地域では、貧しくて身寄りのない人が死ぬと、いったん捨てた後、天然の洞窟に葬ったとも言われています。」

 

「また鎌田久子女史によれば伊良部島では海岸の洞窟に死体を投げ入れ、貧乏人はそのまま洗骨しなかったそうで、これは多良間でももとは同様であった。...
また砂川の例については貧乏人はミャーニの葉で包んで捨てたとの話もある(『沖民』一八)。...
宮古のもう一つの離島水納島も同様で、もとは畑の片隅に石垣で囲って茅で屋根を葺き、その中に棺をいれたそうであるが、それ以前は、死者は海岸の岩の割目に投げ込んだという。」

 

酒井 同 12

 

引用文中度々出てくる『沖民』とは琉球大学民俗研究クラブによる機関紙『沖縄民俗』の略で、『南研』とは、沖縄国際大学南東文化研究所発行の紀要『南東文化研究』の略です。

 

今でも拝まれることもなく、放置されまま亡骸がまれに見られます。
下の写真は藪に覆われた隆起サンゴ礁の岩間におかれた甕(かめ)と、右のかたわらにある頭骨の一部です。

甕は口が狭いので、元々納骨用でないことが分かります。おそらく頭骨は甕に納められなかったので、傍らに置いたのかもしれません。

 

拝まれることもなく、藪の岩間に放置された甕(かめ)と人骨。甕の右に頭骨の一部が確認できる。

 

その下は木々が生い茂った岩のくぼみに葬られた人骨です。
洗骨後、甕(かめ)に納められず、そのまま置かれたようで、肋骨(ろっこつ)や骨盤などが見られます。
時の経過とともに少しづつ泥に埋まっているようです。

 

甕(かめ)に納められることもなく、そのまま岩のくぼみに葬られた人骨。

 

洗骨葬法は火葬と比べて傷みがないうえに、沖縄は隆起サンゴ礁の石灰岩のために人骨の保存が本土よりも良いと言われています。
そのため、復帰直後、研究か、はたまた単なる異常な趣味興味のためか、墓荒らしによる盗骨が問題になったこともありました。
今後もそのような盗骨が起きないとも限らないので、撮影場所は明かせません。

 

(続く)

動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 本日21時公開

  • 2020.06.08 Monday
  • 12:37

小冊子1「本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝」の動画をYoutube(ユーチューブ)で本日21時に一般公開します。

 

URLは https://www.youtube.com/watch?v=Modr1RonVUg&feature=youtu.be です。

 

 

 

今回、ローマ人の手紙11章25節から27節に書かれているように、私たち異邦人への宣教の終わりがそろそろ近づいていると思われる時代だと感じました。

 

そこで、私のYoutube アカウントは、romans1125to27 にしました。

 

ノンクリスチャンの人々が福音を聞いて救われるチャンスもタイムリミットが迫ってはいますが、それは同時に私たちクリスチャンには、愛する者たちは隣人、同胞に福音を語るチャンスも少なくなっていることを意味するのではないでしょうか?

できるだけ多くのノンクリスチャンの方々にシェアをお願いします。

小冊子本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝の動画アップ準備中

  • 2020.06.01 Monday
  • 17:17

只今、小冊子1「本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝」の動画のアップを準備中です。

動画といっても、スライドショーにナレーションをつけたものなので、厳密に言えば、動画ではありません。

ただ動画のファイル形式なので、動画の部類にはいるのでしょう。

 

 

この小冊子は2004年8月に第一刷発行しているので、今年で有に17年にはなります。

沖縄の伝道で常に立ちはだかるのが、祖先崇拝ですが、デリケートな事柄なので、キリスト教界はどちらかというとアンタッチャブルな事柄として扱っていた感がありました。

それでも避けられない問題なので、そのタブーに敢えて挑戦するために発行したしだいです。

しかし、批判的な表現はできるだけ避けた文言を選んだつもりです。

 

今回、ローマ人の手紙11章25節から27節に書かれているように、私たち異邦人への宣教の終わりがそろそろ近づいていると思われる時代だと感じました。

速やかに多くの沖縄の人に、良き訪れの知らせが伝わるよう、インターネットによる動画配信をすることにしました。

アップ後はお知らせしますので、できるだけ多くのノンクリスチャンの方々にシェアをお願いします。

しばらくは ブログ(民俗的視点による霊的戦いと伝道・宣教学 )の更新は滞るようになるでしょう(サクダラファミリア化しないよう、努めますが)。

 

 

 

 

 

アーカイブス なぜ韓国に福音は浸透したのか?(日本に適用できる要素はこれだ!)2

  • 2020.05.27 Wednesday
  • 23:38

なぜ韓国に福音は浸透したのか?(日本に適用できる要素はこれだ!)2

 

前回に引き続き、今回も韓国に福音が浸透したわけを検証し、日本に適用できるものをあげていきます。

後半は[下]の要点をまとめてみました。

[中]もあるのですが、主に歴史的要因について述べてあり、ここまで触れると細々としてきますので、日本に適用できる共通要素にしぼり、[下]だけにしぼりました。

ご覧になりたい方は、(『論文  韓国における初期キリスト教受容の要因[中](2/3)  常石 希望』 ttp://taweb.aichi-u.ac.jp/tgoken/bulletin/pdfs/NO17/Tsuneishi.pdf)にアクセス、ダウンロードしてください。

[上]に出てきた聞きなれない「ネヴィアス方式」が韓国で成功を収めた一つの要因についてまず説明します。

 

論文

韓国における初期キリスト教受容の要因[下](3/3 完) 常石 希望

ttp://leo.aichi-u.ac.jp/~goken/bulletin/pdfs/NO19/04TsuneishiN.pdf

 

ネヴィアス方式とは?

 

p-65 当時中国で活動していた宣教師Nevius(ネヴィアス)の名による。

何がネヴィアス方式なのか?」という点におよぶと、日本人はもとより韓国人研究者の間にさえ深刻な「差異」が存在する。

「ネヴィアス方式」とは,米長老派系宣教師たちが中心となって1890年以降の韓国キリスト教宣教に関わる基本方針を決めた宣教基本方針の総称。

 

p-66

一般に「ネヴィアス方式」と言えば,次の「4点要約」として理解されてきた。

すなわち

「1, 聖書中心主義」

「2,(韓国人信徒による)自主伝道:Self-Propagation」

「3,(教会の)自立運営:Self-Government」

「4, (教会の)自給運営:Self-Support」

 

の4点に、5点目の

「5、1893,1月,韓国長老教宣教部公会議採択の10条」の資料は,上の「4点要約」とは内容面で大きく異なっており,そこでは何よりも「民衆」という概念が全文を包み込み,10条全文の中心に立っているという点である。

 

コメント:後ほど出てきますが、日本が旧士族のインテリ階級や、豪商、名主といった豪農など社会の上流階級にしか福音が浸透しなかったことに対し、韓国は人口が圧倒的に多い庶民を焦点に当てていたことが後々大きな差を生んだものと思われます。

 

p-67  ネヴィアス方式の第一の効果は「この国にいる宣教師がひとり残らず,ほとんど一致してこの方式を用いた」点,すなわちネヴィアス方式の内容いかんよりも,その名の下にすべての宣教師が様々なトラブルを回避し,宣教地域を分割したりして一致協力する関係に立つことができたという点にあった。

 

また第二に「伝道・教会建設・教会の経済的政治的運営」を当初から韓国人自身に任せ,宣教師や宣教本部が安易に金銭や人員の補助をしなかった点である。「伝道,教会運営自体は韓国人指導者にまかせる」、宣教師はキリスト教学校教育を通して,将来のキリスト者青年指導層やキリスト者の母親を育てることを,自分たちの領域の重要な仕事とした。

 

コメント:韓国が統一した方式を用いたために、宣教団体間のトラブルを回避し、さらに宣教地域を割り当てて一致協力したために、無駄なエネルギー消費せず、宣教に専念できたはずです。

それに対し日本も様々な宣教団体が来たことは韓国と同じですが、それぞれの団体が教団独自の教理は方法を用いたうえに、教派主義で一致がありませんでした。

 

現在もセンセーショナルなミニストリーが海外、(沖縄の場合は県外も含め)から来る度に祭りのフィナーレの打ち上げ花火を眺めるように、しばしの日常から離れた高揚感を味わう名ばかりのリバイバル集会が何十回と繰り返されてきました(それで日本のクリスチャン人口が飛躍したという客観的な証拠は出ていません)。

 

さらに人物崇拝とでも言うか、器を追っかけする一部の信者もいるとのことを耳にしています。メールや*SNSで自由に連絡を取り合えますので、神学的・教理的に見て眉をひそめるような集会へ指導者のあずかり知れぬ間に信徒同士で参加し、それが他の信徒に広がっていってキリストの体によからぬ影響を与えたこともありました。

 

*SNS:LINE(ライン)やツイッター、フェイスブックなどソーシャル・ネットワーク・サービスの略。

 

p-67-68

信徒」が自ら教会を建設し,教会を運営し,伝道の主体となり,他の信徒を全面的に指導するのであれば,それは今日のキリスト教的な標準的理解に照らせば,もはやレイマン(平信徒)ではなく,「牧師」にほかならない。

あるいは「信徒牧師」とでも呼びうる者だからである。

初期韓国教会では,当初から「信徒概念」が宣教師たちによって教育された。

 

査経会(サギョンフェ)

 

聖書(聖経)を調査する会,すなわち文字通りには「聖書研究会・聖書勉強会」の意となるが、厳密には,礼拝以外の「緒集会」や「年1度の信徒大修養会」,あるいは「助事 (ジョサ:信徒として牧師代行的役割を担う者につけた初期韓国教会の役職名)」など牧師に準じる者を教育する一種の神学教育機関に対する名称でもあった。

年に1回開かれる査経会を大査経会といい、1904年の宣教会の報告書には、当時韓国のキリスト者全体の60%が参加したと報告している。

 

コメント:クリスチャンになって何年も経つのに、まだ一度も聖書を全通読したことのないクリスチャンがいます。そのような人は聖書をパッと開けないから、すぐに分かります。

日常的に自ら進んで祈り、聖書を読む個人ディボーションを持っておらず、礼拝や祈祷会でしか聖書を開かないからそうなるのです。

 

そのような人がキリストの体に求めているのは、人との交わりであり、「霊とまこと」をもって主との交わりを求めていないからそうなるのです。

 

当時韓国のクリスチャンの60%が大査経会に参加したとありますが、これだけ多くの信徒がみことばを学んでいたのなら、霊的な質が高まるのは当然といえるでしょう。

 

民族的信頼

 

p-76

 

キリスト教が**日帝支配への最大抵抗勢力となったという事実が,結果的には初期韓国キリスト教「受容」の不可欠かつ必然的な最大要因を形成するに至った。

民族全体の悲願である独立への熱望を,キリスト教が代表しそのための闘争運動を率先したことにより,民族の思いとキリスト教が一体化したのであり,両者はその悲願のために共に一致して闘ったのである。

そしてそのことが,初期韓国キリスト教が韓国の地に受け容れられる最大要因の一となったのである。

「民族的信頼」とは,このことである。

 

**日帝:大日本帝国の略称。1910年(明治43年)に当時の大韓帝国は大日本帝国に併合され、事実上韓国は消滅した。韓国の復興は日本の敗戦の1945年(昭和20年)。

 

コメント:もし、韓国キリスト教が支配者である日帝側に擦り寄っていたら、今日のような広がりを見せたでしょうか?答えるまでもないでしょう。

教会が庶民よりも権力者の側に立つなら、決して教勢はのびるどころか、縮小していきます。

強い者に擦り寄る、権力コンプレックスの強い沖縄人は、自身の弱点に気をつけて圧倒的多数派の弱者の側に歩み寄らなければなりません。

 

民衆の神学

 

p-80

「第5 韓国長老宣教部公会議採択の10条」の1〜4,および6,8条は、民衆を焦点にしている。

 

1,上層階級よりも,労働者階級を対象に伝道するほうがよい。

2,婦女子に対して伝道し,キリスト者の少女への教育に特につとめるべきである。それは,母親こそが次の世代に重要な影響を及ぼすからである。

3・4,キリスト教教育は農村において初等教育の学校を経営することによって,大きい効果をあげうる。農村において,若い人々を訓練することによって,将来の韓国人教役者もここから輩出されるであろう。

6,(聖書を含む)全ての宗教文書は(漢文などの)外国語を全然使わず,純韓国語(すなわちハングル文字)で書かなければない。

8,韓国の大衆は,同じ韓国人同胞によって信仰へと導かれるべきである。従って,われわれ(宣教師)自身が大勢の人に宣教するよりも,少数の韓国人を福音伝道者として徹底的して訓練すべきである。

 

コメント:韓国キリスト教が、下層階級の民衆に焦点を宛てていたのに対し、日本は旧士族らインテリ層で、農村でも地主や豪農、味噌醤油の製造業者や養蚕家など、富裕層で、下層の民衆が主体となって教会を運営し、伝道するような形からおおよそ遠かったのです。

 

p-82-83

 

コメント:ノーベル文学賞と平和賞の候補に上がった日本にも民衆を対象に賀川豊彦(かがわ とよひこ)が大規模な伝道を行いましたが、日本のキリスト教界には受け入れられませんでした。

このことを、常石教授は手厳しく批判しています。クリスチャン人口が1%を超えないこともこれに起因しているとの指摘を、日本のキリスト教界の重鎮(じゅうちん)・指導者は重く受け止めるべきでしょう。

ちなみに賀川豊彦はノーベル文学賞と平和賞の候補に上がりました。

 

「賀川の神の国運動の失敗は,「下層民衆拒否」という開教以来の日本キリスト教の体質を如実に示している。またそのような民衆拒否型日本キリスト教と,1%にも満たない日本キリスト教の惨状は,明らかに連動的であり呼応している。

下層民衆を拒否する教会,それはアジアでは日本だけであると言う。

 

一方にアジアで唯一下層民衆を拒否する傾向の強い日本キリスト教会の事実,他方ではアジア最低のキリスト教人口国・日本という事実,この二つの事実の根に日本キリスト教の病巣が存している。

国民の大多数を占める「民衆」に浸透しない宗教は,「量」的,すなわち受容人口の数の少なさという限界があるばかりではなく,その宗教の「質」においても深刻な問題を宿していると言うべきであろう。

民衆神学はただ単に,過去の韓国キリスト教史の主役が「民衆」であった点を発見するだけの神学ではない。

むしろ民衆神学の本領は,かかる韓国の民衆概念を,普遍的なキリスト教および普遍的な神学にまで高めようとするところにあった。

 

すなわち,本来の聖書とキリスト教の中心的使信はそもそも「民衆」の概念のうちに存していること,従って従来のキリスト教は民衆の概念によって根底的に再解釈されるべきであること,特に中世〜近代の西洋欧米型キリスト教は,資本主義体制と歩調を合わせたため,民衆の側に立つことを忘却し,むしろ民衆を支配する側に立つキリスト教へと変質し堕落してしまった点を鋭く批判し,その神学的回復を要求する。」

 

総括:[上]ですでにキーワードをまとめましたが、「自主」、「自立」、「信徒牧者の育成」、「民衆が主体」が日本の教会の強化と国家・民族の救霊の要(かなめ)です。

 

そして、私なりにキリストの体の改革として

 

カスタマー(お客様)クリスチャンからコ・ワーカー(同労者)クリスチャンへ生まれ変わること

 

トップダウン(お上《かみ》の仰せのとおり)からボトムアップ(下々《しもじも》から)でキリストのからだを建て上げ、伝道すること

 

の要素を実行することにあると思います。

 

私がことあるごとに「これからは信徒の時代」と言っている理由がここにあるからです。

 

(終わり)

 

2014年10月02日 木曜日 配信

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