動画「造り主の深いご慈悲」の再アップロードについて

  • 2020.10.19 Monday
  • 21:18

動画「造り主の深いご慈悲」の再アップロードについて

 

10月18日日曜日にYoutube(ユーチューブ)で公開した小冊子3「造り主の深いご慈悲」の動画に手を加えて再びアップロードします。
うちなぁぐちによる信仰告白の祈りの部分が単調なので、うちなぁぐちの祈りから標準語による祈りまで字幕をつけました。

 

URLは

 

https://www.youtube.com/watch?v=pjOYA_PtXDQ&feature=youtu.be

です。

あるいは、Youtube(ユーチューブ)の検索欄に romans1125to27  と検索していただいたら、視聴できます。

 


アップロードは本日23時です。
視聴したノンクリスチャンの方々の信仰告白まで導けたら幸いです。
ご活用ください。

動画「造り主の深いご慈悲」10月18日日曜日21時30分公開

  • 2020.10.17 Saturday
  • 07:08

動画「造り主の深いご慈悲」10月18日日曜日21時30分公開

 

小冊子3「造り主の深いご慈悲」の動画をYoutube(ユーチューブ)で10月18日日曜日21時30分に一般公開します。
URLはhttps://www.youtube.com/watch?v=2pTbxK0R2fE です。

 

 

いろいろ忙殺されて前回からだいぶ時間がたっての公開です。

お盆は国民的行事として、何の疑いもなく行っている習慣行事ですが、由来を殆ど知る人はいません。

お盆の話を入口に救い主による絶対的な愛による贖いへと話を展開します。

救霊のために、特に未信者の方々へ拡散、シェアお願いします。
 

労働と礼拝 はじめに

  • 2020.10.06 Tuesday
  • 18:25

労働と礼拝 

 

はじめに

 

2019年12月に始まった新型コロナウイルスの流行は自主規制やロックダウン、そして外出制限によってたくさんの企業倒産や、個人事業主の廃業、解雇による失業者を生み出しています。

 

それは新自由主義経済で拡大した所得格差をさらに広げ、貧困層をさらに増やした結果となりました。

 

新自由主義経済では、トリクルダウンによって富裕層や大企業が儲かるような経済政策で、次第に低所職者層や貧困層へ富が広がると言われていました。

 

ちょうど、てっぺんのグラスに注がれたシャンパンが下のグラスにまで落ちてくるシャンパンタワーに例えられます

 

しかし、現実は富裕層は設けたお金を再び株や債券市場などの投機に回し、企業は内部留保として蓄積するので、富は下層の人々まで循環しません。

 

富の偏在による階級化と貧困の存在は造り主の御心ではありません。

 

私たちはクリスチャン、とくにプロテスタンティズムの信仰の立場から経済と仕事について造り主の御心は何かもう一度聖書から考えていきたいと思います。


Labor and Worship

 

Preface

 

An epicemic of new corona virus which began from December 2019, is causing many corporate bankruptcies, closed business of self-employed,and unemployed due to dismissal by Self-restraint, lockdown,and Going out restrictions.

 

It was led to the reslut of further widening income inequality in the neoliberal economy, and further increasing of the poor.

 

In the neoliberal economy,it was said trickle down would make wealthy class and large campanies profitable,wealth would gradually spread to low-income group and poor.

 

It just like  champagne tower where pouered champagne of the top glass fall into glass below.

 

However, in reality, wealty class speculate the profitable money to stocks or bond markets, and companies accumulate as retained earnings, so wealth does't circulate to the peaple of lower classes.

 

Division of Classes by the uneven distribution of wealth and the presence of povety is not will of The Creator.

 

We would like to reconsider from the Bible what the Creator's will is about economics and work from the standpoint of Christians,especially the faith of Protestantism.

動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集6 「農村の門中墓」

  • 2020.10.02 Friday
  • 15:42

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動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集6 「農村の門中墓」

 

「動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝」 の文献資料集5の続きです。

前回は門中(もんちゅう)の成立について分かち合いました。

 

今回は、農村の門中墓について分かち合います。

2008年に筆者の宗家(ムートゥヤー)の門中墓の中を調べる機会がありました。
筆者の先祖は無系の地方の百姓の身分なので、琉球王府の定めた家譜に記録されている系持ち、すなわぢ士族ではありません。

沖縄では骨壺に収められている人物の名前や死亡年月日などが記録されていることがあります。
これを「銘書き(ミーガチ)」と呼んでいます。

 

古く沖縄では亡骸を朽ちるに任せて、数年後(地域によるが大方3年後)に洗骨する風葬(ふうそう)が一般的でした。
風葬では火葬と違って遺骨がしっかり残るので、それを納める骨壺も大きく、大人が2人がかりでやっと担げるほど重いものです。
下の写真の後列にあるような厨子甕(ずしがめ)は他県の方や、若い世代にとっても珍しいものでしょう。

 

 

右から左へ番号を振ってありますが、沖縄の門中墓内では一世を中央に、二世は右、左へと安置します。
ここで一番古いと思われるのがH屬凌濟听韻任后

 

 

年月が経っている上に、相当な崩し文字で判読が困難です。

中央は「拾四年」は確実に判読できるので、元号だということはわかります。
おそらく「嘉慶?拾四年己巳」ではと思われます。下二文字は「巳卯}にも見えます。

 

「動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集2」で述べたように、琉球は中国の皇帝に柵方(さくほう、さっぽう)、いわゆる君臣の関係を結んでいたので、中国の皇帝の治世の元号を使用していました。

 

嘉慶帝は、清の第7代皇帝で、在位期間‎は1796年‎から1820年‎でした。

もし、嘉慶14年とすると、西暦1809年で、和暦で文化6年、その年は己巳((つちのとみ)の年となります。
しかし、己卯(つちのとう)の年だとすると、嘉慶24年で、西暦1819年、和暦で文政2年となります。
左の行は「???〇〇村□□」(〇〇は村の名前、□□は姓)とだけ読めますが、以下判然としません。


嘉慶14年でも嘉慶24年だったとしても一番古い厨子甕にはちがいありません。

2番目に古い厨子甕は番号い如◆崙燦八年戌子九月廿三日洗 □□?? ????」と洗骨年月日だけははっきり読み取れました。

 

 

道光帝は清の第8代皇帝で、在位期間は1820年から1850年までです。
道光8年は西暦1828年で、和暦は文政11年で戊子(つちのえね)の年になります。
洗骨はたいがい死後3年後に施されるので、卒年は1825年と考えられます。

3番目に古いのが△凌濟听韻如2人の遺骨が収められていました。

 

 

「夫婦は、甕の 尻 一つ(ミートゥンダ ヤ、カーミヌ チビ ティーチ)」と言われているように、つの厨子甕に夫婦の遺骨が納めれています。

夫が先に亡くなったのでしょう。

 

「咸豊拾三年辛酉八月?死去??□□????」と読めます。

 

咸豊帝(かんぽうてい)は清の第9代皇帝で、在位期間は850年から1861です。
なので咸豊拾三年は存在しませんし、次の皇帝の治世になってしまいます。

辛酉(かのととり)の年なら、咸豊11年は西暦1861年、和暦は文久1年となり、い寮骨年を記すのが常だったとしたら、西暦1861年に洗骨されたのではと考えられます。


上には「同治拾三年??四月死去?三□□?女???????」と読めます。
同治帝(どうちてい)は、清の第10代皇帝で、在位期間は1861年から1875年です。


同治拾三年は西暦1874年、和暦は明治7年で、甲戌(きのえいぬ)の年にあたります。
つまり、明治時代になってもまだ中国の元号を使用していました。
これは、日本の明治政府が琉球を組み入れた「琉球処分」の期間になります。

 

琉球処分とは、1872年に琉球藩を設置し、1879年には廃藩置県によって、琉球王国の主権を奪って大日本帝国に強制的に組み入れた政治的施策のことです。

 

,凌濟听韻砲覆辰董△茲Δ笋和暦が使用されるようになりました。

 

 

「明治廿六年巳年十二月廿三日」 「〇〇村???〇〇〇????女」と銘書きされています。

 

明治廿六(にじゅうろく)年は西暦1893年で、干支では癸巳(みずのとみ)の年になります。

どのような理由や事情があったのか、ある世代で姓が3つほど変わっていることです。

言われによると、筆者は7世らしく、仮にH屬凌濟听韻一世で、18世紀の人の平均寿命が30代だと言われています。
そう仮定すると、一世の生まれたのは18世紀後半でしょう。

 

動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集2」で分かち合ったように、農村で位牌を祀る祖先崇拝が17世紀後半から19世紀にかけて徐々にひろまっていったことを裏付けられます。

 

また、琉球王府が農村へさかんに位牌の普及を奨励したのが、道光年間(1820〜1850)で、番号た濟听韻冒蠹します。

もしかしたら、与(くみ)、ヒキ・ハラなどの緩やかな集団がやがて、農村での門中を形成していったかもしれません。

このように、過去の血統を逆ぼることは大変難しく、平民だと16世紀、*譜代の士族でも14世紀までで、人類の祖である造り主へはたどり着いていません。

 

私たちは、血統から霊統へ筋(すじ)替えをすることで、人類のまことの元祖である造り主に結びつくことができるのです。


*譜代:古くから主君に仕えている士族

(おわり)

動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集5

  • 2020.09.23 Wednesday
  • 18:26

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動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集5

 

「動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝」 の文献資料集4の続きです。

文献資料集3では、門中以前の共同体ハラ(腹)、ヒキ(引)、クミ(与)について分かち合いました。

 

今回は門中の定義と成立の過程の歴史について分かち合います。

中国の王朝暦や和暦、琉球の王朝を持ち出しても、かえって混乱するので、かなり端折ったまとめになります。

 

詳しく知りたい方は文献から確認してください。

 

門中とは、広義の意味では、「1人の人の子孫として同じく血を分けた者、またはその団体」で、狭義の意味は、「本家の行う先祖祭に参加する一族またはその団体」です。


「門中」という言葉の登場は、割合新しく、古い時代には使っていません。
「門中」以前、それに類する言葉に、家門、親類中(1690年)、一門(1709年)が用いられていました。
1745年に「門中類中」という言葉が見られるようになりました。


現在までの沖縄の祖先崇拝の制度は

 

トートーメーと呼ばれる位牌 + 門中墓 + 門中(父系の血縁集団)

 

の3つの要素を満たしていることです。

 

現在確立されている沖縄の門中制度による祖先崇拝がいつから確立したのでしょう?
それは父系の血縁集団でまとまった門中集団の発生と関係があると考えられています。

そのため、沖縄でかなり古い家系図が手がかりになります(1960年代で17世)。

沖縄で記録のある古い家系は14世紀中頃から始まっていると言われていますが、系図が編集されたのは、1690年で、その一年後には、琉球王府が士族と平民の区別を分け、かつ士族の血筋を明らかにするために、琉球王府は系図座を設けて、士族の家譜を編集しました。
その時すでに、その家系は9世となっていました。

ところが、その由緒ある家系ですら、一世はいつ生まれいつ亡くなったのか記録がありません。
二世は生まれた年の記録はありますが、死亡年の記録がなく、三世はその逆となっていました。
四世から七世まではそのような形式でしか記録が残されていません。
生年・死去年の記録があるのは九世以降からです。

 

琉球の祖先祀りは中国の影響が大きいと言われています。
14世紀後半に中国から琉球に移り住んだ、久米三十六姓(くめさんじゅうろくせい)とよばれる帰化集団の、とある氏族ですら、琉球王府の官職や出生・死亡年月日、さらに葬られた墓地すら不明となっています。
特に祖先祀り欠かせない墓所すら六世まで不伝となっています。

唐栄(とうえい)と呼ばれる、この中国から帰化した人々の別の氏族も同様に、元祖から七世まで出生・死亡年月日、墓地不伝となっています。

 

先祖の葬った墓所が不明ということは、年ごとの先祖祀りも一族の集まりもなく、先祖供養の方法もごく簡単に行われていたと考えられます。

 

このような状態で門中を結成する理由はなさそうです。

 

実は唐栄の家譜で葬地が明確になるのは、同じく位牌が備わる時期で、それは薩摩藩の島津氏による琉球侵略(1609年)以降です。

 

門中制度のような家系ごとの墓を持ち、血統を重視する祖先祀りが行われるのは、位牌と墓所がそろった島津氏の琉球入り以降と考えられます。

 

1610年、薩摩藩は琉球に税を課すために、田畑を測量して、境界を定めて収穫高を明らかにする検地を行いました。

 

さらにそれから1620年までに士族と百姓を分ける士農分離を行い、1613年には刀狩りを実施しました。

 

徳川幕府のキリスト教禁令の施政は琉球にもおよび、1636年にはキリシタンでないことを証明するための、宗門改(しゅうもんあらた)めが始まっています。

 

年貢や労役を逃れるのを防ぐため、1652年には農民の町方移住を禁止しました。

 

1667年には、琉球の摂政(せっしょう)となった向 象賢(しょう じょうけん、羽地 朝秀(はねじ ちょうしゅう)のこと)に施政で「位牌は世継ぎに持たせる」(羽地仕置 はねじしおき)と規定され、男系嫡流による祖先崇拝の確立が進んでいきました。

 

1691年に王府は系図座を設けて家譜を編纂(へんさん)し、士族の身分を系統を管理しました。

 

家譜とは琉球王府が認めた士族の系図のことであり、それを持つことが許された身分は、「系持ち(つまり士族)」とよばれ、持てない身分の者は「無系(百姓)」とよばれました。

 

なお、琉球の平民は本土のように、百姓、町人(ちょうにん)といった呼び方の区別なく、地方で農業に従事するものを、田舎百姓(いなかびゃくしょう)、覇や首里の町に住んで商工業に従事するものを町百姓(まちびゃくしょう)と呼びました。

 

このように、士族と平民の身分分離から始まった系図編纂から始まり、一門の意識への高まりによる門中制度は、次第に平民層にも広まっていって今日に至っています。

 

(続く)

 

文献

 

渡口真清 1971「門中の成立」大藤時彦、小川徹編集 『沖縄文化論叢(第二巻)』 平凡社

渡口真清 「系図と門中」 昭和42年12月 『沖縄文化第六巻第二号』沖縄文化協会

渡口真清 「士農分離」 昭和41年11月 『沖縄文化第五巻第二号』沖縄文化協会

渡口真清 「鎖国と琉球」 昭和44年8月 『沖縄文化第七巻第一号』沖縄文化協会

新城徳祐 編著 1960 『干支入 琉球歴史年表』 三ツ星印刷

安達義弘 2001 『沖縄の祖先崇拝と自己アイデンティティ』九州大学出版会

動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集4

  • 2020.09.04 Friday
  • 22:04

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動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集4

 

「動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝」 の文献資料集3の続きです。

 

門中以前の血縁、共同体集団について

 

沖縄の祖先崇拝を語るのに、「門中(もんちゅう)」という組織に触れずに素通りするわけにはいかないでしょう。

門中とは、 *広義の意味では、「1人の人の子孫として同じく血を分けた者、またはその団体」で、狭義の意味は、「本家の行う先祖祭に参加する一族またはその団体」です。

 

沖縄の血縁集団の墓は、門中墓とよばれて、他県のそれに比べて相当大きな造りとなっています。*

 

*渡口真清 昭和42年「系図と門中」沖縄文化協会 『沖縄文化第六巻第二号』8

 

「門中」という言葉の登場は、割合新しく、古い時代には使っていません。
「門中」以前、それに類する言葉に、家門、親類中(1690年)、一門(1709年)が用いられていました。
沖縄の門中以前の共同体 ハラ(腹)、ヒキ(引)、クミ(与)などがありました。
1745年に「門中類中」という言葉が見られるようになりました。**

 

**渡口真清 同 17


現在までの沖縄の祖先崇拝の制度は

 

トートーメーと呼ばれる位牌 + 門中墓 + 門中(父系の血縁集団)

 

の3つの要素を満たしていることです。


門中については後日分かち合うことにして、ここでは、門中以前の血縁あるいは共同体について情報を分かち合います。

門中は士族から始まったといわれており、それ以前や地方には、ハラ(腹)、ヒキ(引)、クミ(与)などがありました。

腹(ハラ)は沖縄本島南部に多く見られます。


「国頭村安波部落に門中が移入したのは明治以降であることを論じた(*常見、一九六五)。」

 

比嘉政夫 1974「「門中」をめぐる諸問題 ―小川徹氏の論考を中心に」『沖縄文化研究1』法政大学沖縄文化研究所 186


「父系血縁の原理を貫徹させた旧士族層や都市地区周辺の門中にくらべ、農村や周辺離島地域の門中においては、父系原理にこだわらず他系出自の者も養子として組み入れている霊が少なからず見いだされた」

 

比嘉政夫、同

 

*常見純一 1965 「国頭村安波部落における門中制度の変遷」東京都立大学南西諸島研究委員会編『沖縄の社会と宗教』25〜58、平凡社


「ヒキは、血縁にかぎらない系統やそれにもとずく集団を意味している(比嘉政夫、一九六七)」

 

比嘉政夫、同 190


「≪首里那覇の旧士族層の門中はともかく、農村地域の門中的な組織は共同墓を中心とするヒキまたはハラとよばれるものであるが、排他的な父系血縁はおろか、何らの血縁的紐帯もないことがありうる≫」

 

比嘉政夫、同 190


琉球王府には、「三司官(さんしかん)」とも、「世あすたべ」ともよばれる、国の政治をつかさどる最高位の職がありました。
その配下には3つの「庫理(ぐい)」とよばれる行政組織がありました。

 

3つの庫理いにはそれぞれ4つの「ヒキ」が所属し、合計12のヒキが存在しました。
このヒキは、海外貿易の拠点として不可欠な那覇港を守備や、湧水、那覇市中の守備を担当していました。
さらに首里城の警備・防衛も担当しており、軍事的編成の性格を帯びていました。
そのほか、貿易船の勤務もしていました。

 

高良倉吉 1991「王府組織の展望」琉球新報社 『新 琉球史 古琉球編』 172-180


「与(くみ)とは、農村で年貢などの租税を納めるために連帯責任を負わされた共同組織のことです。」

 

『アーカイブス 動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集2』


「但し、與(くみ)の名義は大小いろいろに使用され、*向象賢(しょう じょうけん)が*首里三平等(しゅりみひら)の行政区割を設定したときに、各平等の長官を與頭(くみがしら)と唱え、又*切支丹改(きりしたんあらため)等の時には、與中と云う語が名主貫内を相称する場合に使用されている」

 

東恩納寛惇 昭和25年(昭和39年再印刷)『南東風土記』沖縄郷土文化研究会 41

 

旧漢字と仮名使いを現代仮名使いへ変更し、引用しています。


*向象賢(しょう じょうけん):琉球の政治家で琉球王国の摂政(せっしょう)となった羽地朝秀(はねじちょうしゅう)のこと。

 

「羽地仕置」として知られる琉球の政治改革を行った。

 

*首里三平等(しゅりみひら):琉球王国時代の首里の3つの行政区画。
真和志の平等・南風の平等・西の平の3つ。

 

*切支丹改(きりしたんあらため):江戸時代に行われたキリシタンの摘発や、キリシタンでないことを証明する宗教政策。


私たち沖縄出身者は血縁親者の集団を表す門中ということばを日常的に使用していますが、位牌と同じように士族層から始まり、地方の平民に広まっていったことは知られていません。

 

また、門中以前の組織共同体の呼び名についても大半の人は関心が薄く、それすら知らないのが現状でしょう。

 

(続く)


 

動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集3

  • 2020.07.31 Friday
  • 21:38

アーカイブス

動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集3

 

「動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝」 の文献資料集2の続きです。


ナレーション:だからといって、おいそれと従ったわけではなく、死を忌み嫌い、死者の霊を表す位牌を家の中に置くことにはかなりの抵抗があったにちがいありません。

 

「位牌祭祀が十七、八世紀に頃に定着したといっても、これはあくまでも系図持、つまり上流社会において定着したことを意味するので、常民社会においてはそうはいかない。
位牌を祀るということは心理的もかなり強い抵抗があったようだ。
その理由はいくつも考えることができる。
例えば家屋の広さは制限されていて、祭壇を作るだけの余裕などはとてもなかった。
それよりも死者に対する畏怖感が濃厚で、屋外に墓を作るということすら恐れたところもあるくらいで、ましてや屋内に死者の霊を祀るということは想像もできないことである。」

 

酒井卯作 昭和62年『琉球列島における死霊祭祀の構造』第一書房 518-519


ナレーション:今から二百年くらい前、役人が村の家々をまわってちゃんと位牌を置いてあるか検査をしたとき、位牌を置いていない家では、検査の済んだ家の位牌を裏からリレーして二、三軒の家の検査を済ませて役人の目をごまかしたとも言い伝えられています。

 

祀った位牌を拝む祖先崇拝の祭祀が確立している現代では、この話は信じられないかもしれませんが、この個所は、動画の話の最大のトピックでしょう。

 

これは沖縄バプテスト連盟の初代理事長だった故照屋寛範牧師の著書に依ります。

 

「位牌あらためのこと しかし、位牌が地方の庶民(しよみん)に祭られるようになったのは、これよりすっと後のことで旧藩時代末期のようである。
今から約百、五六十年前に位牌検めなるものが、時の田地奉行(でんちぶぎょう)玉代勢(玉代勢:たまよせ 筆者読み方挿入)*里之主(里之主:さとぬし 筆者読み方挿入)によって行われた。
「位牌あらため」とは位牌を祭ってあるかどうかを検査(けんさ)することであったが、この時、まだつくっていない家では、垣根(カチヌミー)ごしに「チンブキ、チンブキ」手渡しをして、一つの位牌で二三軒の検査をすませたとのことである。
この話は佐久原牧師にうかがったのであるが、同夫人が、右田地奉行玉代勢里之主の孫女に当られる方であるから間違いのない話であろう。
なんぼお上からの検査の為とはいえ、また、これが一時的とはいえ、他人の位牌をかりて来てかざるということは、今日の人々の位牌観念(いはいかんねん)からすればとうてい出来そうにないことである。
これから考えても、位牌及びこれを中心とする沖縄人の祖先崇拝は、その当初にあってはお上からしいられたものであったことがわかる。」

 

照屋寛範 『沖縄の宗教・土俗』1957年 7


ナレーション:このように位牌の歴史はそう古くなく、庶民、特に農村に位牌が広まったのはかなり後で、明治の初めから大正ぐらいにやっと定着したようです。

 

「奄美大島瀬戸内町久根町でも、明治の頃までは百姓の家は**三丈二間ぐらいのもので、とても仏壇などおく場所はなかった。札(ふだ)(位牌)は小さい箱にいれて納っておき、盆などにはその棚から札をとり出して祀ったという(久家実知氏談)。
その位牌も本願寺の伝道者が古仁屋に本拠を構えて布教しだした頃から始まったもので、それは、大正の初期頃らしい。
それまで慣行としてあった葬儀のときに**トベラの枝で叩いていく風習や、弔いの夜に行ったヤーダレ(家祓い)は野蛮だという理由で、布教師から中止させられたそうである。
つまり常民社会においては、精神的な意味でも、物理的な意味でも、屋内に聖断を常設して祀るということは、その家屋構造からみても困難であった。
王府から厳しい通達をうけながら、大正時代になってもまだ位牌を祀らなかった久高島をはじめ、昭和になってもその必要を認めなかった琉球各地の風習は、現代の祖先崇拝の感情だけではとても理解できないものである。」

 

酒井卯作 同 535-536

 

また、琉球大学の民俗研究クラブによる読谷村座喜味集落調査報告書にはこのように書かれています。

 

「又、仏壇に位牌のない家が多い。戦争で失くしたが、まだ新しいのを作っていないのだと言っている。」

 

琉球大学民俗研究クラブ 1966年 『沖縄民俗第12号 狩俣・熱田部落調査発表』78

 

*里之主:琉球王国時代の士族の位階。

**三丈二間:一丈(じょう)は約3メートル、一間(けん)は約1.8メートル。
三丈二間は約12.6メートルになる。

***トベラ:海岸の岩地に崖地に自生し、四月から六月にかけて、白または淡い黄色の小さな花を咲かせます。
実は秋頃熟し、割れて、種は赤いネバネバした液に包まれています。
植物全体に悪臭があり、トビラに刺して魔除けにしたことから、その名がつけられたようです。

 

 

(続く)

動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集2

  • 2020.07.27 Monday
  • 22:58

動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集2

 

「動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝」 の文献資料集1の続きです。
今の祖先崇拝の形態の普及は歴史的に浅いことを証明する、重要な部分です。


ナレーション:庶民への普及 位牌の祀りは最初、王様の一族で行われており、それに倣って士族に広まったのは、今から四百年前です。

 

「首里・那覇の王府官人層の場合、十六世紀初めまでに位牌祭祀を受容していたのであるが、」

 

沖縄国際大学南東文化研究所 1994 『ト−ト−メ−と祖先崇拝 ―東アジアにおける位牌祭祀の比較―』 沖縄タイムス社 22


ナレーション:庶民へは各家に位牌を置くようにと王様の命令で広まりました。

 

「農村では位牌をまつる習慣は十七世紀後半から十九世紀にかけて徐々にひろまったらしい。
農村でいち早く位牌の祀りをおこなったのは王府官人(士族)と接することの多い地頭代(地頭代:ジトゥデー、筆者による読み方の挿入)以下の地方役人であった。
一七六九年に伊計村の名嘉村親雲上(親雲上:ペーチン、筆者読み方挿入)が位牌のない村人のために「掛物神主」七十一軸を作って分け与えたことが『球陽』巻十六・尚穆王(尚穆:しょうぼく、筆者読み方挿入)(在位一七五二‐九四)三十年の条に記されている。
掛物神主とは個人の名を書いた紙をはった掛け軸であろう。
略式とはいえ、神の位牌を沖縄でも用いることがあったわけである。
十八世紀にはいって王府が、百姓に位牌を安置して祖先をまつるよう、くりかえし指導したことは、「北谷間切締向之条々」や、久米島・宮古・石垣の在地士族の行政方針にてらして明らかである。」

 

沖縄国際大学南東文化研究所 同 22

 

その「北谷間切締向之条々」の内容を見てみましょう。
原文は文語調に書かれているので、現代語に私訳してみました。

 

「一 村々の家に位牌を安置してない者ものが増えていることは、供養が疎〈おろそ〉かになっているものとみられるので、位牌による供養は死者の霊魂を引き寄せて祖先の霊に対する孝行を尽くし、その時の法要儀礼のために〈位牌を〉安置して真心をもって時節ごとの法要儀礼を適切に行わないと適〈かな〉わないことである。
右のような今の様子では、死者の霊魂が安らかに眠ることができないのはもちろん、追悼〈ついとう〉としての孝行の道が適〈かな〉わないことは明らかである。
人の道を忘れた先にあげた右のように位牌のない者は早急に(位牌)を仕立てて法要を手厚く執り行うよう申しつけること。」

 

小野武夫 編集、吉川圭三 発行 昭和7年7月30日第一刷、昭和62年10月1日第4刷発行 『近世地方經濟史料 第十巻』 吉川弘文館 315,349

 

これは、同治(どうち)八年己巳(つちのとみの日)霜月(しもつき)となっています。

同治という聞きなれない元号が出てきましたが、和暦をいくらさがしても出てきません。
琉球は中国の皇帝に柵方(さくほう、さっぽう)、いわゆる君臣の関係を結んでいたので、中国の皇帝の治世の元号を使用していました。

 

当時の中国は清朝で、時の皇帝であった同治帝は清朝の第10代皇帝でした。
同治八年は、同治帝の在位8年で、西暦では1896年、和暦では明治二年です。
霜月は十一月で、己巳の日はついたちです。
つまり、1896(明治2)年11月1日です。

 

つまり、琉球の農村では明治に入っても、位牌が普及しておらず、琉球王府がさかんに指導してました。

 

北谷間切より少し古いのですが、久米島の具志川間切でも位牌の設置に関する指導が行われていました。

 

「 〔史料]久米具志川間切規模帳

二 諸事締方の事

一、位牌を安置していない者いて、はなはだしくよろしくないことである。
急いで仕立てるよう、申しわたすべきこと。

一、跡方(あとかた)相絶(あいたえ)て、位牌だけ置いてある家屋敷が村ごとに多くあるのは、見かけ上よろしくないので、与(くみ)、親類または周囲が見苦しくないように取り計らうべきであると、申し渡すべきこと。

道光(どうこう)十一年辛卯(かのとう)十一月十二日」

 

具志川村史編集委員会 編 昭和51年 『久米島具志川村史』321、333 具志川村役場

 

道光帝は清朝の第8代皇帝です。道光十一年は西暦1831年、和暦で天保(てんぽう)二年です。
干支(えと)で辛卯(かのとう)の年ということです。

与(くみ)とは、農村で年貢などの租税を納めるために連帯責任を負わされた共同組織のことです。

 

このように、琉球王府は地方役人を通じて農村の各家にも位牌を安置するよう、明治に入っても指導を行っていたことが分かります。

 

(続く)

動画 沖縄の伝説・行事に見る造り主のお姿 7月24日金曜日21時公開

  • 2020.07.21 Tuesday
  • 07:40

動画 沖縄の伝説・行事に見る造り主のお姿 7月24日金曜日21時公開


小冊子2「うちなぁの伝説・行事にみる造り主のお姿の動画アップ準備中」の動画をYoutube(ユーチューブ)で7月24日金曜日21時に一般公開します。


URLは https://www.youtube.com/watch?v=ITbKTCYoaBM&feature=youtu.be です。

 

前回よりも画像の数も多く、けっこう時間がかかってしまいました。
今回は貴重な未公開映像も含まれており、初めて公開する画像もあります。
私個人のファイルの中に埋もれていましたが、主のお役に立つことできました。
多くの方に拡散、シェアお願いします。

小冊子うちなぁの伝説・行事にみる造り主のお姿の動画アップ準備中

  • 2020.07.18 Saturday
  • 09:17

小冊子うちなぁの伝説・行事にみる造り主のお姿の動画アップ準備中

 

小冊子1「本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝」の動画から一か月以上経ちました。
継続してアップしていくつもが、隙間時間をぬっての制作なので、なかなかはかどりません。
只今、小冊子2「うちなぁの伝説・行事にみる造り主のお姿」の動画を調整です。

 

 

画像が多くて前回よりも工程も増えましたが、もうすぐ公開します。

 

時は短いので、総力戦のつもりで、私がオリジナルで持っている画像などを多用しました。

 

前回は伏線的な話の展開でしたが、今回は原罪から贖罪にいたるまで福音が語られています。
公開前になったらお知らせします。

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