動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集1

  • 2020.06.26 Friday
  • 16:33

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動画 本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝 の文献資料集1

 

小冊子1として2004年に発行した「本当の祖先崇拝は真の元祖造り主崇拝」は誰にでも分かりやすく話を展開することに主眼を置きました。
そのため、時の琉球王国の政権だった琉球王府を王様と表現したり、参考にした資料や文献の表記を省きました。
しかし、大変まれにその根拠となる資料を求められることがありました。
今回動画を公開したことによって、求められることが多く出るだろうと予想されます。
そこで資料の引用文を表記することにしました。
動画や小冊子を用いて伝道したときに、出典を求められた際に活用されたら幸いです。

 

ナレーション「琉球の歴史に初めて位牌の記録が出るのは、今からおよそ600年くらい前...お寺に、しかも王様の一族だけが拝んでいました」

 

「沖縄の位牌のまつりが最初に史料に登場するのは朝鮮の『李朝実録』である。
そのなかの「世祖恵荘大王実録」八年(1462)の紀事に、済州島人梁成らが琉球に漂着して見分したことが記録されている。
それによると、梁成たちは1456年に久米島に漂着し、那覇に送られたが、7月15日にお寺では、死者の名を書いたものをテーブル上において僧侶が読経していた、と報告している。
1456年には、琉球王国の臨済寺院で位牌祭祀がおこなわれていたのである。」

 

沖縄国際大学南東文化研究所 1994 『ト−ト−メ−と祖先崇拝 ―東アジアにおける位牌祭祀の比較―』 沖縄タイムス社 19-20


ナレーション:位牌の由来
位牌は、トートーメーとも言われています。トートーメーとは「貴(とうと)い御前(おんまえ)」という意味で、...

 

「トートーメーとは「貴い御前(とうといおんまえ)」の意。近代までは信仰対象としての「月」もトートーメーといっていたが、現代ではもっぱら位牌に祀られる祖先をさす。
トートゥガナシ(貴いお方の意)ともいう、カナシ(加那志)は尊称。」

 

沖縄国際大学南東文化研究所、同 34


ナレーション:中国の礼儀と孝行と大切にする儒教...

 

「そして白木の粗末なものでなくて、赤や黒の漆を塗った立派なものを作るようになったというわけですね。
今の位牌の起源です。
そのような位牌はいつごろ、どこで作られたかが問題です。
おそらく中国で、儒教の信仰の高まりとともに作られたと思われます。
何しろ儒教は「孝」を道徳の基本に置き、これを実践することを教えの中心にしています。
中国の孝というのは、生きている親やもちろん、死んだ祖先に対してもよく仕えることなのです。」

 

沖縄国際大学南東文化研究所、同 152


ナレーション:位牌以前の葬法 ほとんど風葬が行われました。

 

*「現在の琉球の葬制を支えているものは洗骨習俗にみられる典型的な複葬制である。
洗骨というのは、死亡するとまず埋葬される。内地の多くの葬法はこれですべてが完了するので、いわゆる単葬制ということになる。
ところが琉球では数年後、死者が骨化する頃を見計って掘り起こし、骨をきれいに洗って最終的に納骨してすべての行事が完了する。
つまり二度の死者の処置を施すわけで、複葬もしくは二次葬などとよばれるゆえんである。」

酒井卯作 昭和62年『琉球列島における死霊祭祀の構造』第一書房 50

*著者が調査した当時の葬制であって、もちろん、現在の沖縄の葬制は火葬で一度の葬儀を済ます単葬制です。

「こうして考古学の成果を洗骨習俗として結びつけて考えてみると、現在の濃厚な祖先崇拝と結びつくような洗骨の風習は少なくとも十三世紀頃までは存在しなかったと考えられる。」

 

酒井 同 83


ナレーション:その他亡骸(なきがら)を野山や海岸の洞穴にそのまま放置した葬法もあったようです。

 

「地上におかれた死者をめぐって、最初に物議をかもしたのは、たぶん河村只雄氏の報告であろう。
氏は昭和11年から始めた琉球列島の調査を『南方文化の探求』と題してまとめているが、その中の一節に「風葬される地帯の山に行くと到るところ骸骨がゴロゴロして居る。
筆者は或岩かげに臭気こそなかったが、まだ骨面が艶々して居て、死後尚あまり年月を経過したものとは思はれない風葬体を見た」とあり、さらに「天然の洞窟や墓場の森の中に、なきがらを只置いて帰るのである。
置いて帰ったら、再びお墓詣りをするのでもなく、何周年といふ様な法事をするでもない。
仏壇とか位牌とかいったものは勿論ない。
都会人の頭で抽象的に考へ、外面的にのみ見るなら、正に、死体遺棄とでも言ひたいところである(九〇頁)と述べてある。氏は洗骨や改葬などは所詮、首里文化の影響にすぎないと考える。」


酒井 同 45


「また常見純一氏によれば、同じ国頭の安波では、目撃者のいる最古の葬法は海に近い村外れのアダンの繁みの中に納棺せずに遺骸を置いたままで、その後は何もしなかった。
犬がその骨をくわえてくることもあったという(『沖縄の社会と宗教』五二頁))。
また平良豊勝氏の手による『喜如嘉の民俗』(九二頁)によれば、この村の北方にあるメンバ崎とドーコの岩場にはそれぞれ骨場(くちば)というところがあり、そこには多数の人骨が散乱していたという。
一説には根謝銘城の周囲には昔の戦死者らしい人骨が多くあったから、これもその当時の戦死者の骨であろうと推測される。
この喜如嘉のマチジ山やタモージ山などの竹山では死者が骨化すると、その下から竹が髑髏の目や鼻などの穴のあいているところを突きぬけて生えてくるそうである。」

 

酒井 同 11


ナレーション:葬地はとても恐ろしい場所としてできるだけ近づかないようにした地域もあったようです。

 

「石垣きみ子女史によると具志川市太田には多くの洞窟(がま)があるが、とりわけアタナシガマには石棺が並び、人骨があり、ここにはめったに近づくものでないという(『沖縄民俗研究』三)。
また与那城村宮城でも墓は恐ろしいところだという(『沖民』二〇)。
したがって久米島儀間などではモー(原)の先に家を作ると栄えぬといって忌むというのも(『沖民』二〇)墓地への恐怖からとみられる。
モーは墓の別名である。
このように、沖縄本島でも古い葬地に立入ることは強い禁忌観念がみられるが、宮古島に下るとこの傾向はいちだんと厳しいものになる。
宮古島では葬地は人に教えるものでない(宮国定徳氏)といわれるほど敬遠される。
具体的な例として平良市などの一部では正月十六日の清明祭をヨーツといい、墓参りをするが、このときは墓まで行かないで途中まで行って木の枝を折って祀って帰るという(『平良市史編集だより』八)。
また鎌田久子女史の採集によれば、宮古本島の北方にある大神島では墓は恐ろしいところで近寄らず、清明祭などにも墓に行かないで、部落近くの三辻になった畑の中などで墓祭りをするというし、水納島では死後二十一日間は墓に水をもっていくが、それ以後はけっして行かない。
墓はこの島のいちばん恐ろしいところで、日頃は人はここには寄りつかないという(『女性と経験』一五)。
その大神島に対する宮古本島北端の狩俣でも墓地は極端に恐れて、日暮になる近づかない。
ここでは清明祭はなく、その代わり年に一度の七夕の日に墓掃除を行なう例があるが、この日にも墓までは行かない家がある。
だから荒れ放題で、草木に覆われたままの墓地も珍しくなかったという(『沖民』一二)。
狩俣の北端のセド崎は現在は道路が完備しているが、昭和四十五年頃までは人骨が散乱していて丙午の日などは火の玉が出るとか、三味線にあわせて歌も聞えるといい、この日に行くと熱病を出して死ぬという話もある。
したがって平素でも村人はそこに行くのを好まなかったそうである。
こうした葬地に対する態度と、伊良部島や大神島では依然は棺を葬地におくと懸命に逃げ帰った(大森義憲氏)ということとを考え合わせると、死者に関する考え方がどのようなものであったかが想像できよう。
葬地は隔絶された世界であり、生者と融合できる何ものも存在しない。
鎌田久子女史は同じ報告の中で、砂川では葬地の手入れをすると、その人は死ぬとさえ伝えている。
八重山地方でも葬地に対する考え方は変わらない。
崎原恒新氏によれば、黒島では墓をおそれて、特別な行事でもなければそこには行かなかった。
だから石垣市の*四箇では、沖縄の風習をまねて、墓に行って三味線などをひいて遊ぶ光景を珍しがるそうである。
その石垣市でも、野山で人骨を見た場合、けっしてかわいそうだ、などいってはならない。
そういうと死霊がその人にすがって成仏しない。
だから「汚ない」といって唾をはきかけるそうである(『南研』八)。」

 

*四箇:石垣市の四ヵ箇字のこと。字登野城、字大川、字石垣、字新川。

 

酒井 同 338-339

 

「狩俣の人たちは墓が古いせいか、極力墓を恐れて、日暮は墓地に近づこうとしない。
清明祭がないので年に一度の墓掃除の日である七夕のときでも行かない家がある。
従って墓地は草木に覆われ、うっそうとして、近年、人が近づいた形跡すらうかがえない。」

 

琉球大学民俗研究クラブ 1966年 『沖縄民俗第12号 狩俣・熱田部落調査発表』48

 

「このセド崎は狩俣部落の北方、宮古本島の最北端ではたくさんの骨が散在し、村人達は平家の落ち武者の骨だろうとか、いや、マーレン(帆船)が嵐に会い、その漂流人の遺骸だとか話をする。
現在でも丙午、甲午の日には誰もいないのにランプの大きさくらいの火の明りが二つついているように、マーザピース(火の玉)が出この日にはつづみや三味線に合わして歌が聞こえて来るとのことでその日でなくても村人達はそこに行くのを好まない。
この日に行くと熱病を起してたおれるといわれている。」

 

琉球大学民俗研究クラブ 同 61

 

「七 夕 酒、線香、お茶を持って墓掃除に行く。
掃除が終わるとお茶、酒を供え、線香を焚き、盆にいらっしゃる様に祈る。
又墓に直接行かない家では畑や小高い所で墓の方に向いおがむだけである。
狩俣では一般に墓はきたない所とか恐い所であると考えられている。」

 

琉球大学民俗研究クラブ 同 82


ナレーション「ある地域では、貧しくて身寄りのない人が死ぬと、いったん捨てた後、天然の洞窟に葬ったとも言われています。」

 

「また鎌田久子女史によれば伊良部島では海岸の洞窟に死体を投げ入れ、貧乏人はそのまま洗骨しなかったそうで、これは多良間でももとは同様であった。...
また砂川の例については貧乏人はミャーニの葉で包んで捨てたとの話もある(『沖民』一八)。...
宮古のもう一つの離島水納島も同様で、もとは畑の片隅に石垣で囲って茅で屋根を葺き、その中に棺をいれたそうであるが、それ以前は、死者は海岸の岩の割目に投げ込んだという。」

 

酒井 同 12

 

引用文中度々出てくる『沖民』とは琉球大学民俗研究クラブによる機関紙『沖縄民俗』の略で、『南研』とは、沖縄国際大学南東文化研究所発行の紀要『南東文化研究』の略です。

 

今でも拝まれることもなく、放置されまま亡骸がまれに見られます。
下の写真は藪に覆われた隆起サンゴ礁の岩間におかれた甕(かめ)と、右のかたわらにある頭骨の一部です。

甕は口が狭いので、元々納骨用でないことが分かります。おそらく頭骨は甕に納められなかったので、傍らに置いたのかもしれません。

 

拝まれることもなく、藪の岩間に放置された甕(かめ)と人骨。甕の右に頭骨の一部が確認できる。

 

その下は木々が生い茂った岩のくぼみに葬られた人骨です。
洗骨後、甕(かめ)に納められず、そのまま置かれたようで、肋骨(ろっこつ)や骨盤などが見られます。
時の経過とともに少しづつ泥に埋まっているようです。

 

甕(かめ)に納められることもなく、そのまま岩のくぼみに葬られた人骨。

 

洗骨葬法は火葬と比べて傷みがないうえに、沖縄は隆起サンゴ礁の石灰岩のために人骨の保存が本土よりも良いと言われています。
そのため、復帰直後、研究か、はたまた単なる異常な趣味興味のためか、墓荒らしによる盗骨が問題になったこともありました。
今後もそのような盗骨が起きないとも限らないので、撮影場所は明かせません。

 

(続く)

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